ディープラーニング, 人工知能, 文章生成

新渡戸稲造をディープラーニングで勉強させてみた。

前回の福沢諭吉に引き続き、新たに新渡戸稲造の「自警録」をディープラーニングに勉強させてみた。こちらも原典は青空文庫である。これを福沢諭吉「学問のすゝめ」と同じように機械学習させてみた。新渡戸稲造を選んだのも論旨の明快さと文、節、構造から、あたりをつけていた。そして、この本は読みやすい。現代口語に近い文体だ。

更に福沢諭吉と同じように、新渡戸稲造も啓蒙のための筆であることだ。つまり、その筆で人を納得させ、人を導き、人を育てるものだからだ。今回は機械だけど。

学習完了後「世界を制する」というお題を与えて、文章を生成させてみた。

 

世界を制する者ははなはだ少ない。
かつまた人を威なる勝利である。また個人々々の一身上にとりても攻撃的態度をもって他人にせまる必要は、はなはだ少ないと思う。しからば文明国にては文明の進歩とともに強力が減退してますます人が柔弱になるかというに、決してそうではない。減退するのでなく、強さの形、力の現れ方が変化するのである。
いわゆる強さの形が変化するというは、克し得ぬ。

外に強き人と内に強き人
僕は好んでプルタークの『英雄列伝』を読む、読んでいるあいだに古代の英雄豪傑の勇気凛然なる差違がある。
絵草紙や講談師の筆記にある木村長門守としていたのを見て、心ある者は泣かずにおられぬ。かつこの若貴公子は真に強い人であると賞嘆するを禁じ得ない。

よく耐うる人は強き人
ドイツの先帝フリードリヒ陛下が不治の病気に罹に召され、
「小言を言わずに、堪うることを学べ」(Lernen zu leiden ohne Klagen)
と訓しニコニコと喜べるものと思い、しかしてかくまでにうれしそうな顔しておらるるなら、何ゆえに外出して馬にも乗り、観兵式にでも出られぬと疑ったであろう。
桂をよそおったという。
戦場に死するはことの外たやすい、何故なれば死ぬように万事仕向けてある。すなわち白隠和尚が多い。
米国の南北戦争にクエーカー宗の人々は非戦論を唱えて、戦時税を払わず、兵役にもつかず、ために当時の政府はその処分について少なからず苦しんだ。法に従って彼らを罰じ、納税の義務も免じた。
これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。
ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。

人はくれなゐ

世に蔓延る者は憎まる
「憎世にはびこるのである。
して見ると、はびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否むしろすこぶる感服することがたくさんある。

古今の事例はこれを示す
これ我が天職なり、これ我々がまさに履される。
孔子より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない」
と、こういう僕もこれより言わんと欲ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。
老人らが懇々で笑いたくなることもある。
またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽することがままある。
ゆえに、少しく油断すると聖人するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。
こういうふうに他人が吾人知らぬゆえである。

教訓を味わう力が足らない
今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は自もさらさねばならぬ。
たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末っているかを味わうことができなかった。
「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」
と諺のなかった所に、
「感なり」と、また、
「人わず」と。
実にそのとおりで、良木を利用して修養の用に供することができそうである。

努力すれば高い境遇に登れる
わが輩が今まで数百の言をならべて述べきたった要点は、夢は偶然く人もあろう。
一般人士の踏に進入することを得るであろう。古人の歌に、

世とも知らずありてなければ

などいう一首の意味も、吾人ずるの日も来たらん。

人間白日醒猶睡  人間は白日に醒るがごとく
老子山中睡却醒  老子って醒めたり
醒睡両非還両是  醒睡
溪雲漠漠水冷冷  溪雲たり

芭蕉
葵花

そめ色の山もなき世におのづから
柳はみどからけり

これに反し、しばしば我々が耳にするもので、しかじかの事業は己ない国家といわねばなるまい。
幸いにして我が国では相当に税を収める道具になるだけのことであるという観念を与えた。
晨れを苦しめることのはなはだしいものである。こんな国家はないほうがいいという結論にも来たり得るし、また歴史上そういう結論をした国民も折々ある。

「国家」というよりも健全なる個人思想が大切

 

という文章がでてきた。

まず、第一行目だ。「世界を制するものははなはだ少ない。」すごい、すごすぎる。原典にはこれと完全一致する文は存在しない。何より正しい日本語だ。そして、内容は確かにその通りだ。言っていることがまともであり、事実だ。君、なにもの? (いや、ただの計算結果である)

そして「「国家」というよりも健全なる個人思想が大切」だそうだ。すごい、すごく納得感がある。(本当にただの計算結果である)

福沢諭吉だけが特別かと思っていたが、出始めると、意外とそれっぽいものがでてくるものである。

なかなか面白くなってきた。